「それはおよそ善き時代でもあれば、およそ悪しき時代でもあった。知恵の時代でもあるとともに、愚痴の時代でもあった。(中略)…前途は全て洋々たる希望にあふれているようでもあれば、また前途はいっさい暗黒、虚無とも見えた。
人々は真一文字に天国を指しているかのようでも有れば、 また一路その逆を歩んでいるかのようにも見えた…。」
(『二都物語』中野好夫訳/新潮文庫)
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海軍事務員であった父親、ジョン・ディケンズの胸像。浪費癖が災いし、家計はいつも火の車だったという(ロンドン・チャールズ・ディケンズ博物館蔵)。
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まるで現在我々の暮らす社会を思わせるような繁栄と危機の時代であったヴィクトリア朝の作家、チャールズ・ディケンズ。冒頭の『二都物語』のほか、『クリスマス・キャロル』『オリバー・ツイスト』『デイヴィッド・コパーフィールド』『大いなる遺産』など、数多くの名作を世に送り出し、英国の生んだ大文豪として国際的な名声を誇る。クライマックスまで、物語が『大どんでん返し』の連続という作品も少なくなく、エンターテインメントとして人々を存分に楽しませつつ、それでいて、巧みに盛り込んだ社会性の強いメッセージを嫌味なく読み手に伝える、卓越した技能の持ち主だったと断言できる。筆者が独断で選んだ、主要五作品のごく簡略なあらすじについては、左ページのコラムをご参照いただくとして、ディケンズが大文豪となるに至った『秘密』について、早速見てみることにしよう。
チャールズ・ジョン・ハッファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens1812―1870)は、1812年2月7日、8人兄弟の2番目、長男としてイングランド南沿岸部ポーツマス郊外のランドポートで誕生。海軍の下級事務員である父親と、ロンドンにある楽器製作所の経営者の娘である母親の間に生まれた、特に裕福な訳でもないが使用人を雇う余裕はあるという、中流階級の家庭だった。
父親の転勤により2歳でロンドンへ。その後五歳で軍港の町ケント県チャタムへと引越したディケンズは、姉と共に学校にも通い、少々病弱ながら読書や歌の好きな少年として、一見不自由のなさそうな生活を送っていた。
だがディケンズが10歳にも満たないうちに、一家にある問題が持ち上がる。快活で社交好きの父親の見栄っ張りで浪費癖ありという一面が災いし、家計が次第に苦しくなっていったのだ。
父親が見栄で借りていた大きな屋敷を出て同じ町にある小さな家へと引越すことになったディケンズは、この家の屋根裏部屋で父親の蔵書を読み漁ったり、シェイクスピア演劇に関心を持ったりするなどし、教師である近所の牧師から、前途有望な少年として目をかけられていたという。
ディケンズが10歳になった年、一家は再び父親の転勤によりロンドンへと移る。しかし父親の浪費家ぶりは変わらず、また母親も夫に劣らず経済観念がなく、給料の前借りや友人への借金はいよいよかさんでいく。場末の安い下宿屋を転々とし、日々のパンを買う金にも困るようになった一家は、親戚の勧めもあり、12歳になったばかりのディケンズ少年をテムズ河畔ハンガーフォード・ステアーズ、現在のチャリング・クロス駅の近くにあった靴墨工場にとうとう働きに出すことにした。
現在のような児童労働保護法など存在せず、賃金の安さから子供が貴重な労働力とみなされ、働かされることが珍しくない時代だったが、これは幼いディケンズにとってひどく屈辱的な事件であった。貧しいとはいえ中流家庭の長男として生まれた彼は、自分は学校で学問をおさめ、将来出世するのだと思い込んでいたであろう。それが不甲斐ない親のために学校へもろくに通わせてもらえず、挙げ句の果てに労働者階級の子供たちと一緒に、朝から晩まで働かされる羽目になってしまったのだ。
この靴墨工場で子供たちに割り当てられた仕事は靴墨用の壷を洗い、新しいラベルを貼りつけるというもので、決して過酷な内容ではなかったというものの、ディケンズはみじめな境遇に身を落としたという思いを拭うことができなかった。しかも傷心の彼にさらに追い打ちをかけるような事件が起こる。父親ジョンが、膨れ上がった借金を返済することができずとうとう逮捕され、監獄に入れられてしまったのである。

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『オリバー・ツイスト』ほか彼が初期の代表作を書き上げたというグレイズ・イン法学院近くの住居は、現在、「ロンドン・チャールズ・ディケンズ博物館」として一般公開されている(観光スポット参照)。
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父親が入れられたマーシャルシー債務者監獄は、監獄といっても殺人者や強盗などの犯罪者が入れられる恐ろしげなものとは異なり、規則は厳しいが、家族ぐるみで生活できる公営住宅のような施設だった。収監者本人以外であれば、門限はあるものの自由に出入りもできたため、一家は数ヵ月に渡り家族ぐるみでここで暮らすことになった。
しかし、児童労働者に身を落とした上、借金を踏み倒した犯罪者の息子になるという、二重の屈辱を味わうことになったディケンズ少年だけは監獄の住人となることをよしとせず、近くに安下宿を借り、そこから仕事場に通うことを選ぶ。家賃のかからない監獄の一室で皆が暮らす中、家族のために生活費を稼いでいる彼が、わざわざ自室を別に借りたという行動の影には、他人に自分の惨めな境遇を知られたくない、という強い自尊心が働いていたのだろう。
幸か不幸か、この事件の数ヵ月後に父方の祖母が亡くなり、その遺産で借金を返済することができた父親は、出獄後1ヵ月ほどしてディケンズに仕事を辞めさせることにし、彼はウェリントン・ハウス・アカデミーという私立小学校へ通うことを許された。ただ、夫がまた借金で首がまわらなくなるかも知れないという懸念からか、当初母親は息子を働かせ続けようとし、自分の気持ちを理解してくれない母親に、ディケンズ少年の心はひどく傷ついたという。
こうした一連の騒動、そして彼が覗いたロンドンの庶民社会は、ディケンズの慈善精神や、皮肉っぽさをたたえた生き生きとした人間描写といった作風を形づくる要因となっている。「人間万事塞翁が馬」という故事さながら、大文豪ディケンズは、子供時代の貧乏暮らしと、幼くして大人の苦労を味わうことになった経験なくしては誕生し得なかったのだ。
ようやく学業に復帰し、アカデミーを卒業した15歳の頃、ディケンズはある法律事務所で助手の仕事に携わるようになる。しかしこの仕事にあまり興味が持てず、そのころ海軍を退職して新聞の議会通信員となっていた父親にならいジャーナリストを目指して速記法を学び、16歳で民法博士会(ドクターズ・コモンズ)の速記者として働き始める。
十代後半のディケンズは政治ジャーナリストになるべく修業を積む一方、裕福な銀行家の娘との叶わぬ初恋を経験したり、仕事の後に大英博物館付属の図書室に通い独学で文学を勉強したり、演劇好きが高じて俳優を夢見ては挫折したりと、若者らしい青春時代を送ったようだ。
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| ディケンズ夫人となったキャサリン・ホガース(1846年頃)。夫婦の不和とその後の破局は、ディケンズの死後まで伏せられていたという。封建的なヴィクトリア時代らしい話だ。 |
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| 若き日のディケンズは繊細な美少年といった面持ち。なお、ディケンズは生前、派手な葬式や記念碑を辞退し、私人としてロチェスターに埋葬されることを望んでいたが、結局、国家の偉人として、ウェストミンスターに葬られた。 |
念願かなって新聞の政治記者となり多忙な日々を送っていた21歳の頃、ついにディケンズにもチャンスが巡ってくる。仕事の傍ら書き上げて投稿した短編作品が、月刊誌『マンスリー・マガジン』に採用されたのだった。初めての創作が活字になったことに感激した彼は、これ以降「ボズ」というペンネームを使ってあちこちの雑誌に短編小説やエッセイ等を発表。投稿作をまとめた初の短編集『ボズのスケッチ集』は、その優れた観察眼が認められ、ディケンズは一躍、新進作家として注目を浴びる。
ディケンズが作家としてデビューしたヴィクトリア朝前期においては、文学は未だ大衆のものではなく、書籍は贅沢品として一部の裕福な階級の手にしか届かないものだった。しかも、当時小説は低俗とみなされ、その読者人口も多くはなかったという。しかし18世紀後半から始まった産業革命により経済が飛躍的に発展し、大英帝国が絶頂期を迎える中、出版界は印刷技術の向上などにより劇的な変貌を遂げ、それに合わせるように国民の活字文化もまた変わっていく。こうした時代の流れが、大文豪ディケンズの誕生を可能にした、もうひとつの『秘密』だったと言えるだろう。
小説は三巻本で出版され、その値段は労働者の週給にも相当するほどだった当時、あまり裕福ではない大衆層をターゲットに新しい事業を立ち上げようとしていた出版社チャップマン・アンド・ホールが、新人作家ボズことディケンズ青年に白羽の矢を立てた。そして1836年、彼の初の長編作品となる小説と挿絵によって構成された小冊子が、大衆に手の届く月刊分冊形式で発売の運びとなる。ディケンズが24歳の時のことだった。
この『ピクウィック・クラブ(ピクウィック・ペイパーズ)』は、当初売れ行きは思わしくなかったが、第4冊目の物語に登場した愉快なロンドンっ子「サム・ウェラー」が人気を呼び、その後は驚異的なベストセラーを記録。ディケンズは人気作家としての名声を確立していった。
またこの前年から、新創刊の夕刊新聞『イヴニング・クロニクル』に短編を寄稿していたディケンズに、私生活でも大きな変化が訪れる。同紙の編集長の長女であるキャサリン・ホガースとの結婚である。だが二人は10人もの子供に恵まれながらも、のちに性格不一致のため別居生活を送るなどその関係はあまり幸せなものではなかったようだ。
加えて結婚当初、ディケンズは妻よりもその妹であるメアリーに、より深い愛情を抱いていたといい、彼女が17歳で急死した際には哀しみのあまり一時執筆活動ができなくなってしまったほどだったとされている。日本の文豪、夏目漱石は夫人が悪妻だったことで有名だが、結婚生活に何らかの問題があったほうが創作活動にはプラスになるのかもしれない。
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| 米国とディケンズの縁は意外に深い。これは米国フィラデルフィアにある、ディケンズの唯一のブロンズ像。 |
初の長編小説で成功を収めたディケンズは新聞記者を辞め、作家としての道を歩み始めるとともに、記者経験を見込まれ新月刊誌『ベントリーズ・ミセラニー』の初代編集長に任命される。彼はここで編集作業にいそしむとともに、初期の代表作となる『オリバー・ツイスト』や『ニコラス・ニックルビー』を連載。また、自らのスケッチをもとに軽喜劇の舞台を上演するなど精力的な創作活動をスタートしたのだった。
3年後、出版社主ベントリーとの契約上の不和が生じ、編集長の座を退いてからも雑誌編集への情熱は止み難く、28歳の年には自らが執筆、編集を務めたワンマン週刊誌『ハンフリー親方の時計(The
Master Humphrey's Clock)』を発行し、そこでも自作を連載、英国と米国で多数の読者を得る。これがきっかけとなり1842年、ディケンズは夫人を伴ってリバプール港からボストンに向けて発ち、長期の米国旅行を行うことになった。
彼は行く先々で大歓迎を受けたものの、南北戦争前夜の米国での経験は、ディケンズにとって楽しいものばかりではなかった。まず、自作が海賊版として出回っていることに困惑した彼が国際著作権について協定の必要を訴えたものの受け入れられず落胆。また、各地で精力的に訪れた刑務所や精神病院、養護学校等の施設の粗末さに驚き、奴隷制の横行に心を痛めた。このため、旅行後に出版された紀行文には、米国への批判的な思いが率直に綴られ、多くの米国人読者の反感を買う結果を招いた。ただ、この訪米により親交の深まった、ワシントン・アーヴィング(著作『スリーピー・ホローの伝説』ほか)といった米国人作家たちとの関係は、その後も長く続くこととなった。
なお、25年後の1867年、公開朗読巡業のため再び訪米を果たした際には、ディケンズは商業的に成功を収めたこともあり、米国社会の四半世紀の進歩を素直に認めて以前の印象を修正し、米国民もまた改めて好意をもって彼を迎えたという。
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| ポーツマスにあるディケンズの生家では朗読会も随時開催されている(写真左上)。また、彼がこの上で息を引き取ったという寝椅子も展示(同上)。 |
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米国旅行の翌年の1843年ごろから、ディケンズは作家として初のスランプ期に突入する。新しく連載を始めた長編小説はこれまでのような人気を得ることができず売れ行きは低迷し、大家族を養わねばならなかった彼は経済的にも苦境に立たされたのだった。
しかし、幸運の女神はディケンズのもとを去りはしなかった。
この年の暮れ、彼はかねてから関心を抱いていた社会改善や、慈善の精神を訴えた中編小説『クリスマス・キャロル』を自費出版する。人間愛を強く押し出した作品を、クリスマス・シーズンに発売して収入増をはかろうというビジネス的目算もあったこの小説は、大いに売れた。装丁に凝り過ぎたため予想ほどの儲けは出なかったが、これ以降、彼は毎年クリスマスになると『クリスマスの本』を発表するようになる。ディケンズはなかなかの商売上手でもあったようだ。
ただ、ディケンズが再び長編作品に取りかかるまでには数年の空白が生まれることになった。この間、彼は家族とイタリアに滞在したり、常々挑戦したいと考えていたと思われる素人劇団を結成、演出と役者の一人二役を受け持ったりした。さらに、自作朗読が友人らの好評を博したことに気を良くして、たびたび朗読会を開くようになるなど精力的に動いた。たとえスランプ期であろうとじっとしていられない、エネルギッシュな一面をディケンズは持っていたと見える。
この空白期間を乗り越えた30代後半か40代後半にかけての10数年間の彼は、自伝色の濃い『デイヴィッド・コパーフィールド』、ヴィクトリア朝社会の腐敗をえがいた『荒涼館(Bleak
House)』、債務者監獄に対する風刺をえがいた『リトル・ドリット(Little Dorrit)』ほか多くの長編作品をコンスタントに発表。作家として円熟期を迎え、名声を高めていく。
その間もこれまで何度か手掛けては挫折していた雑誌編集への情熱は止まず、新しく立ち上げた雑誌『家庭の言葉』では、経営から編集・執筆作業や出版まで一人でこなしていた。ここでは新人作家に発表の場を提供しながらも、投稿された原稿に勝手に手を加えてしまうといったワンマンぶりも依然健在だったと伝えられている。