今から二百二年前の一八〇五年十月二十一日、スペイン南端、トラファルガー沖。英国VSフランス、当時世界の強国といわれた二国の命運を担った海軍同士がついに直接対決の日を迎えていた。この世紀の一戦を勝利に導いたのが、ロンドンにあるトラファルガー広場の石柱の人物として有名なホレイショ・ネルソン(Horatio Nelson 一七五八―一八〇五)だ。
 海戦スタートからおよそ半日が経過したころ、ネルソンが編み出したという独自の接近戦(ネルソン・タッチ*と呼ばれる)により、突撃の最前部を行く旗艦『ヴィクトリー号』は砲弾の嵐の中にあった。午後一時半、隣接するフランス軍艦の狙撃兵による銃弾を肩から浴びたネルソンは、デッキに倒れ込み、そのまま医務室に担ぎ込まれた。脊柱をも貫通した銃弾の痛みに喘ぎ苦しみながらも、親友でありヴィクトリー号の艦長であるハーディ大佐から伝えられる戦況を受け「攻撃せよ!」と提督として命令を出し続けていた。
 しかし、医務室の薄暗いランタンの下で聞く砲声の爆音も致命傷を負った彼の耳には遠く感じられるようになっていた。負傷からおよそ三時間後、「完璧な勝利です。ただ各艦がはっきりとは見えないので何隻の敵船を捕獲したのかは不明です」と言うハーディ大佐の勝利報告に安堵したのであろう、ネルソンは「神に感謝する。我が義務を果たした。(Thank God, I have done my duty.)」の言葉を繰り返しながら静かに息を引き取った。午後四時三十分。大量の体内出血による四十七歳の最期だった。
 提督として自ら進み銃弾飛び交う最前線で指揮を取り続け、英海軍を勝利に導いたネルソン。今回は、激しい痛みと勝利の喜びの狭間で、四十七年間の短い生涯を閉じ、『英雄』として語り継がれるネルソンの生い立ちからその人生を探ってみたい。

*ネルソン・タッチ―前方で鶴翼状に弧を描いて待ち受ける敵船団に向かって直角に二列縦隊を組み突進するという戦法


 緑の森と青く澄んだ小川、遠くまで起伏の続く麦畑の丘に囲まれた美しい田園の村ノーフォーク県バーナムソープ(rnham Thorpe)。ネルソンはここで、牧師のエドマンド・ネルソンとその妻キャサリンの息子として一七五八年九月二十九日に生まれる。県内にあるノリッジとノースウォルシャムの学校に寄宿生として通った後、母方の叔父であるモリス・サクリング艦長を頼りケント県チャタムにある英国海軍に入隊した。九歳で母親を亡くし、男手一つで子供たちを育てていた父も病気を患い、家計を按じていたこと、さらには厳格な学校教育を通じて愛国心が芽生えていたことからの志願だった。これにより一七七一年三月、十二歳で叔父が指揮する戦列艦に士官候補生として乗り込み、海軍兵のキャリアをスタートさせた。
 少年時代のネルソンは体格には恵まれず頑丈とは言いがたかったものの、牧師の家庭の出という環境からか、正義感と信仰心に溢れていた。しかしそれが時として頑固で融通の利かない性格として表れることもあったようだ。それを物語るエピソードとして彼が十一歳の時に通っていた小学校での出来事が挙げられる。
 強情だったネルソンは、生徒に体罰を科することで有名だった教師たちに普段から目を付けられていた。ある日、鳥の巣を教室に持ち込んだネルソンを教頭が厳しく注意すると、彼は「ごめんなさい、先生。この卵、僕が抱いてやらないとうまくかえらないんです」と、詫びながらも自分の正当性を主張した。同級生が見ている目の前で上半身裸にされ、背中に鞭打たれ、真っ赤に腫らしながらも、ネルソンは決して「二度と鳥の巣を持ち込みません」とは言わなかったという。相手が教師であろうと構うことなく、自分の意見を最後まで押し通そうとしたのだ。
 これはネルソンの生涯に通ずる信念であり、『己の正義と信じることには何が何でも突き進む』海軍人としての礎が既に築かれていたことを示す出来事といえるだろう。


Captain Horatio Nelson,
painted by John Francis Rigaud in 1781

  今日残っているネルソンの肖像画は実に多くあり、特に若いころのネルソンはかなりの美男子であったことは容易に伺い知れる。「行く港ごとに女性がいる」という当時の海軍人にまつわる通説は誇張ではなかったらしく、赴任地が変わるたびに新たな恋人を作る、という状況はネルソンも例外ではなかったようだ。世紀の大スキャンダルと言われた駐ナポリ大使夫人エマ・ハミルトンとの不倫に行き着くまでにもネルソンは様々な浮名を流している。
 まずは一七八二年、英国植民地だったカナダのケベックで、町娘のメアリ・シンプソンと出会い、結婚を考えるも友人たちの反対にあい断念する。続く八三年、フランスでの休暇中に英国人牧師の娘エリザベス・アンドリューズに恋をし、またしても結婚を考えたが、こちらは資産家のエリザベスとの経済格差を理由に断られてしまう。さらに翌八四年、カリブ海の密貿易監視任務で赴いたアンティグア島では、弁務官の若妻メアリ・マウトレイに熱を上げるも、メアリに敬遠されてしまい親密な仲にはなれなかった。
 翌年、西インド諸島ウインドワード島で「書類上」生涯の伴侶となるフランシス・ニズベットと恋に落ちる。上級裁判官の娘で、未亡人となり、先夫との間に息子がいた彼女は、ネルソンの恋心を「海軍人の一時の気の迷い」と捉え、最初は相手にしなかった。それでもネルソンは、ラブレターをしたため「――わが胸はあなたを恋焦がれ、あなたと共にあります。私の頭の中にはあなたしかいません。あなたから離れると私には何の喜びもありません。最愛のファニー(フランシスの愛称)――」などと歯の浮くような口説き文句で彼女の心を揺さ振った。筆まめのネルソンのアプローチが功を奏したのか、出会いから二年後の八七年、ネルソンは二十九歳でフランシスと結婚することになる。

Lady Nelson, wife of Horatio Nelson
© www.gutenburg.net

  ネルソンの魅力を倍増させているのはその整った容姿とは不釣合いの隻腕隻眼という身体的『特徴』ではないだろうか。トラファルガー海戦にいたるまでの歴戦でネルソンは右目、右腕を失っている。常人ならば引退を考えそうなものだが、現役でいることを彼が選んだのは持ち前の正義感からであるのはもちろんのことだが、そこに軍人としての『名誉欲』も絡んでいたのではないかと考えられる。
 ネルソンの肩書きを遡ってみると、二十歳で『勅任艦長post captain(現在の階級では大佐に相当)』となるまで順調に出世していた。上官たちに将来を見込まれていたこともあるが、海軍人として有力な叔父の縁故も大きく作用したといわれている。先述のカリブ海密貿易監視任務に勅任艦長として臨んでいたネルソンは、結婚した年の人事異動で英国に戻ることになる。しかしその後はフランスなどとの外交関係が改善されたため、昇進することもなく、不本意にも給与が半分ほどの予備役に編入され、ノーフォークの実家暮らしに甘んじることになってしまった。
 不遇な日々を送っていたネルソンを救ったのは一七九三年の英仏戦争だった。八九年に勃発したフランス革命が英国に飛び火する兆しを見せ、英国政府が革命軍に宣戦布告したのだ。ネルソンは三十五歳にして地中海艦隊任務の一環として臨時に提督の資格を与えられた。五年近くも任務から遠ざけられた後の現役復帰。それにかけた思いは相当のものだったと推測できる。
 九四年七月、「カルビー湾の攻略の戦い」では、敵の砲弾で飛び散った砂利が右目に突き刺さり視力を失いながらも引き下がらず、英国軍を勝利に導いた。この功績により『艦隊司令官(commodore)』へ、そして九七年には『海軍少将(rear admiral of the Blue)』へと昇進していく。しかし同年「テネリフェ島、サンタクルーズ侵略」を指揮した時、敵の狙い撃ちに遭い右腕を襲われ、切断せざるを得なくなったばかりか戦いにも敗れてしまう。
 隻腕隻眼の身となったネルソンは翌九八年、「ナイルの海戦」の前夜、士官たちと食事をしながら「明日のこの時間までには私は貴族の称号を手に入れているか、ウエストミンスター寺院(英国で国葬が行われる場所)に行くかのいずれかだ」と話したとされる。戦いへの意気込みはもちろんのこと、名誉欲も躊躇することなく周りに語っていたのだ。この戦いでネルソンは前頭部に重傷を負い、大量の流血に耐えながらもフランス軍に大勝利している。
 こうして生きて帰ったネルソンは英国政府より男爵の地位を与えられ、『ナイル及びバーナムソープ男爵』となった。


Emma Hamilton © Paul Barlow Sir William Hamilton, a portrait by Henry Hudson, 1787, mezzotint

ネルソンは先述の臨終の際に、従軍牧師として付き添っていたスコット博士とハーディ大佐に、今までの人生で大きな罪は犯してはいないと自負しつつ、残される家族で最愛の人である、エマ・ハミルトンと娘のホレイシアをくれぐれも見捨てないようにと念を押して死んでいった。ネルソンとエマ―、両者にとっては純愛であったが、世間的には『ダブル不倫』であったため、当時の英国タブロイド誌の格好のネタにされていた。
 そもそもエマとの最初の出会いは、ネルソンが不遇を解かれた九三年に遡る。地中海艦隊の守備領域内であったナポリ王国に援軍要請のために赴いた時のことだ。この時ネルソンはまだ五体満足であり、エマも駐ナポリ英国大使夫人として上流階級の幸せな暮らしを謳歌していたため、お互いに『秘めた想い』を胸に抱えつつ過ごす程度であったようだ。やがて本格的に恋に落ちたのは、「ナイルの海戦」を終えて艦の修理と補給のためにナポリ王国に立ち寄り、五年ぶりの再会を果たした時のことだった。
 エマはもともと下層階級の出身で、幼い頃は貧しい生活を強いられていたが、その美貌と歌唱力を買われ、国会議員を含む権力者の妾となるなどして生活していた。美術品収集家としても知られていた夫、英国大使ウイリアム・ハミルトンには二十六歳の時に人身売買とも取れる方法で引き渡され結婚し、実に三十四歳の年の差夫婦となった。これによりエマは上流階級の貴婦人の仲間入りを果たすこととなった。
 隻腕隻眼で体調も崩し、目を覆いたくなるような姿で再び現れたネルソンにエマはショックを受けるが、エマの中でその同情の気持ちが愛情へと変化していったのだろう。エマはネルソンのもとを片時も離れようとしなかったという。恋に落ちたネルソンも滞在を伸ばし、ナポリを活動の中心と定めてしまう。そんな中でしだいに軍務よりもハミルトン夫妻との交友を重視するようになり、あちらこちらで噂が立てられ始めた。上官の命令よりもエマとの日々を優先するまでになったネルソンの行動はやがて英国民の知るところとなり、ネルソンとエマの関係は大衆ゴシップのネタとなっていった。


トラファルガー海戦の英雄ネルソンと、英国大使夫人エマのロマンスを描いた作品。主演のヴィヴィアン・リーとローレンス・オリヴィエは、撮影時、実生活でも互いに配偶者のある身でありながら恋愛関係にあったという点で、公開当時大いに注目を浴びた。トラファルガー海戦でネルソンを失い、財産を使い果たし、目もうつろになりすっかり老け込んだエマが、酒窃盗のカドで収容された刑務所で仲間の女性に昔語りを聞かせるという設定で話が進んでいく。

あらすじ
恋人の借金の肩代わりに、彼の叔父である、在ナポリ英国大使ウィリアム・ハミルトン卿と不本意に結婚させられたエマであったが、レディの称号を与えられナポリ国王一家と親しく付き合い上流階級の暮らしを満喫していた。ところがある日、夫の元を訪れた海軍提督、ホレイショ・ネルソンと出逢ったことで彼女の世界は一変してしまった。ほのかな想いはやがて身を焦がすほどの恋に変わり、互いに配偶者がありながら逢瀬を重ね、ロンドンに戻った後、2人の間には子供まで生まれる。フランシス夫人がネルソンの元を去り、ハミルトン卿が亡くなり、2人のささやかだが幸せに満ちた生活が始まろうかという矢先、ネルソンに出撃要請が下される―。


1940年 英国 128分
製作・監督 アレクサンダー・コルダ(Alexander Korda)
主演 ヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh) ローレンス・オリヴィエ(Laurence Olivier)

隻腕隻眼となったネルソン
 一七九九年、十年間に及ぶフランス革命がナポレオンの独裁政治の開始と共に終焉し、ネルソンとハミルトン夫妻も英国への帰路についた。ウィーン、プラハなどを充分過ぎるほどの時間をかけて周り、一八〇〇年十一月、ネルソン一行は英国に到着した。この時の大衆は素直にネルソンの帰国を歓迎したというが、上流階級の人々の間には愛人と享楽にふけり、のんびりと帰ってきたことに嫌悪を表す者も多かったという。
 ネルソンは正妻フランシスと再会したが、不倫の身の上は許されるはずもなく翌年一月には別居。この時代の法律では夫の暴力行為がある場合しか離婚が認められなかったので、書類上二人は最後まで夫婦だったことになる。これ以降ネルソンがフランシスと会うことは二度となかったとされる。皮肉にもその直後、エマがネルソンの子供を出産。生まれた子供は女の子で唯一の実子となった。
 このような慌しい私生活の中、『海軍中将(vice-admiral of the Blue)』に昇進し、艦隊次席司令官として「コペンハーゲンの海戦」を戦うことになる。戦闘不利と判断した司令長官が「撤退せよ」という信号旗を揚げた際、視力のない右目で望遠鏡をのぞきながら、「本当に何も見えん」と言って無視し交戦を続け、結果として大勝利に導いたという有名なエピソードが残っている。自分の信念のためなら上官の命令すら押しのける、強引で一本槍な性格の表れである。さらにネルソンはこの功績により『ナイル及びバーナムソープ子爵』に昇格した。




 一八〇三年、再び英仏関係が悪化。五月、英国政府はフランスに対し二度目となる宣戦布告を行った。エマとつかの間の隠遁生活を楽しんでいたネルソンは、再び地中海艦隊に召集され、『司令官(Commander in Chief, Mediterranean Fleet)』に任命された。ネルソンは旗艦「ヴィクトリー号」に乗船し、艦隊を率いて出航した。これは同時に、二年と五ヵ月後に行われることになるフランスとの世紀の一戦に向けての出発となった。
 宣戦布告から二年半近く経た後での直接対決は、陸上戦ならば考えられないほど時間が経過しているが、これは陸上戦を得意とするナポレオンの立てた作戦が海上での状況を考慮に入れない突飛なものであり、生粋の海軍人であるネルソンはフランス艦隊の動きを掴むことができず、地中海上を迷走することになってしまったからだ。
 一八〇五年十月二十一日、トラファルガー沖。ネルソンは有名な信号旗「英国は各員がその義務を果たすことを期待する(England expects that every man will do his duty.)」を掲げ艦隊の士気を高めた。英国艦隊は戦艦二十七、小型艦五の計三十二艦。対するフランス・スペイン連合艦隊は戦艦三十三艦、偵察用小型艦七の計四十艦であったため、艦数では敵が有利なはずだった。
 その敵艦を抑えての英国の勝利は様々な要素が絡み合っていたと分析されている。まずフランス・スペインは政治的なつながりのみの連合艦隊で士気が低かったこと。先述の「ネルソン・タッチ」という想定外の戦法にフランス・スペイン連合艦隊が大混乱に陥ったこと、英国艦隊の艦載砲が最新式で連射能力に長けていたこと、さらには敵艦隊の提督、ヴィルヌーブはこの時点でナポレオンから更迭命令が下され、無能の烙印を押された人物であったこと。しかし、なによりも、愛国心を貫くネルソンの意気込みと彼を支持した海軍兵の団結が大きく作用したことは疑う余地もない


Courtesy of Pusser's Rum
 この時代遠征先で命を落とした海軍兵は、遺体を海に投げ込まれて水葬されるという形式が一般的だった。しかし、ネルソンはトラファルガー海戦の総指揮官という特別な階級にあり、遺体は本国へ送還すべきであると考えられた。
 もちろん当時は冷蔵設備など船に備えつけられておらず、船員たちはネルソンの遺体腐敗防止のため、船内に貯蔵していた大人が一人入るほどの大きさのラム酒の酒樽に遺体を保存し、英国まで運ぼうとした。1805年10月21日、満タンのラム酒に浸されたネルソンの遺体とともにトラファルガーを出航したヴィクトリー号は、28日、ジブラルタル海峡までたどり着く。しかしその時遺体と共に樽にたっぷり入っていたはずのラム酒が半分に減っており、蒸留ワインをさらに補充せざるを得なかったという。
 ラム酒が減っていたのは、アルコール好きの船員たちがネルソンの功績にあやかろうと、樽に小さな穴を開けてそこからストローで飲んでしまったからだ、と言われている。この出来事から海軍仕様の隠語 “Tapping the Admiral”(提督の栓を抜く=お酒を盗み飲む)が生まれたとされる。そして今日まで、海軍で飲まれるラム酒を“Nelson’s Blood”(ネルソン提督の血)と呼ぶようになったと言われている。
 なお、この逸話には諸説あり、遺体を浸していたのはラム酒でなく、ブランデーだったという説や、ジブラルタルの時点でアルコールが半分に減っていたのは船上で蒸発し、さらに遺体がアルコールを大量に吸収してしまったからというものもある。いずれにせよ、『ネルソン提督の血』は200年経った現在もラム酒として海軍兵たちに愛飲されている。



 国王以外の人物として歴史上初の大規模な葬儀が執り行われ、トラファルガー沖に散ったネルソンは国中から華々しく送られた。二百年以上経った今も多くの逸話や記念品が残されているのは、やはり勝利と共に散った潔さに英国民が敬愛の念を寄せるからであろう。
 振り返れば彼の人生は正義感と名誉欲、それに倫理観と直情的なまでの愛情によって支配されていたと考えられる。エマへの一途な想い、戦いの場における粘り強さ、上官の命令に背くことをも恐れず、自分の判断で突き進むといった行動などにそれは見て取れる。戦場での死をいとわなかったのは、エマとの醜聞でスキャンダルまみれのまま英国へ帰ることへの強い躊躇と、命と引き換えに勝利すれば海軍人としてこれ以上ないほどの賞賛と名誉を授かるであろうという期待をこめた計算があったとするのは考えすぎだろうか。しかしながら、まさにトラファルガーは彼の「人生」を集約した墓場として、それ以上を望むべくもないほどの舞台だったといえるだろう。